物理学の研究者からアントレプレナーシップ教育の道へ

東北大学工学研究科インターナショナルオフィスの松下ステファン悠先生は、大学生や高校生向けのアントレプレナーシップ教育プログラムを提供しています。
東北大学理学部を卒業した松下先生は最初、物理学の研究者になる道を考えていました。そんな松下先生がなぜ「アントレプレナーシップ教育」の研究と実践に取り組んでいるのか。そして、高校生や大学生にどのようなことを伝えているのか。お話を伺いました。
大学生・高校生に多様なプログラムを提供
東北大学では「アントレ人材育成プログラム」というプログラムを担当しており、社会に価値を生み出す人材を育成することを目指し、アントレプレナーシップ教育に取り組んでいます。ユーザーの視点に立って課題解決に取り組む「デザイン思考」という考え方に基づきながら、「未来想像Lab」や「価値創造工房」、「異能アントレチャレンジ」などのプログラムを学生向けに提供しています。
「未来想像Lab」は東北大学の全学生に向けて開講している講義で、「大学を卒業した後、自分はどのような人物に成長していたいのか」をテーマに自分自身の進路・キャリアを考えていくプログラムです。
自分の5年後のビジョンを描いてから、その未来を疑似体験します。例えば、研究者になりたいと考えている学生は論文を読んでみたり、自分が目指す理想に近い方々(研究者や起業家)へのインタビューを行ったりしています。私は学生に「可能性は自分の知っているものからしか生まれないよ」とか「人生はいろんな無限大の可能性なんだよ」という話をしています。
「価値創造工房」は主に工学部の1年生向けに提供している講義で、他の学部の学生も受講することができます。ここでは「デザイン思考」の考え方に基づき、アイデアを形にする方法を学びます。共感、問題定義、アイデア創出、プロトタイプ、テストという流れがデザイン思考の一連の流れなのですが、この流れを体験し、インタビューから課題を掘り下げ、その課題を解決するプロトタイプ(試作品)を作り、検証します。

たとえば「理想の財布を作ろう」をテーマにしたワークショップでは、2人1組のペアを組み、相手のニーズを掘り下げることで、自分と相手が理想とするものが異なることを学びます。そして、そのアイデアを折り紙で形にしていきます。中には、「財布を忘れてしまうなら、家ごと移動できればいい」という発想から、移動式の家を作った学生もいて、その奇想天外なアイデアには驚かされました。
「異能アントレチャレンジ」では、スタンフォード大学d.schoolやUCバークレー、エストニアにあるタリン工科大学など海外大学への研修プログラムを用意しています。仙台市等とも連携し、実社会でスキルを実践しながら成長できる機会を提供しています。
また、高校生に対しても、「未来想像Lab」と「価値創造工房」で伝えていることの基礎編を行っています。東北大学のAO入試で合格した学生向けの入学前研修として海外研修があるのですが、その学生に対して「未来創造Lab」で実施しているのと同じような内容を提供しています。海外経験を通じて「どんなグローバル人材になりたいのか」を明確にし、そのビジョンを具体化。帰国後には経験を振り返り、将来の目標を再定義する活動を行い、より明確な未来のビジョンを描くことを目指します。
さらに、「科学者の卵養成講座」という東北大のプログラムを受講している高校生に向けても、科学技術を使ったビジネスの考え方やデザイン思考について伝えています。高校生・大学生向けのプログラムについては「アントレ人材育成プログラム」のWEBサイトにまとめているのでぜひご覧いただければと思います。
https://mirai-entre.org/

「アントレプレナーシップ教育」の道に進んだきっかけ
私は東北大学入学時から「アントレプレナーシップ」に興味があったわけではなく、最初は理学部の物理学科で学んでいて、高校の先生を目指していました。高校時代に友達に受験勉強を教え、その友達の「解けた!」という瞬間が嬉しかった事が教師を目指そうと思ったきっかけです。
しかし、学年が上がるにつれて物理の実験が始まり、物理そのものの魅力に引き込まれました。そして、次第に研究者の道に進むことを真剣に考えるようになり、最終的には大学4年生の時に博士号を取得して研究者になることを決意しました。博士課程では、表面物理学という分野で半導体表面の研究を進めていました。そこで教育熱心な教授のもとで「博士号(Ph.D.)は未来の可能性を広げる切符である」という大切な教えを受けました。
それは「大学院を卒業すると授与される学位、Ph.D(Doctor of Philosophy)は、考えるプロフェッショナル。考え方を追求するプロが博士(Ph.D)だから、どの分野にも考え方を応用できると」いう考え方でした。「テーマが変わっても考え方はすでに身についているので、2、3年もすればその分野でまた活躍できる」という言葉に私は強く共感し、分野を変え、新しい領域に挑戦しても大丈夫だという自信を得ることができました。

ですので私自身も基礎的な研究からより応用的・実用的なまったく異なる研究分野に挑戦しました。その研究内容は、温度差を電気に変換する材料の開発で、温度計や冷蔵庫の冷却システムに使われるペルチェ素子の新しい材料を研究するというものでした。
このあたりから「アントレプレナーシップ教育」につながる出会いがありました。「リーディング大学院プログラム」という博士の次のキャリアを考えるプログラムの助教として採用され、学生の相談役を務めることになりました。博士の進路の選択肢として研究者、企業もそうですが起業というのもあることに気づき、東北大学のアントレプレナーシップ教育プログラム(Edge Next)にも関わるようになました。2020年に、カリフォルニア大学バークレー校への海外研修の引率として学生に同行することになりました。この研修でデザイン思考のワークショップを体験したことが大きな転機になりました。
正解がない問いに対して、自由でオープンなディスカッションが新鮮で面白いと感じました。
これが本当の異分野交流だと感じました。さらに翌年の2021年にスタンフォード大学が提供するアントレプレナーシップに関わる教員のための研修にも参加しました。各教師が持つ教育スタイルの違いを尊重し、みんなでお互いの良いところを取り入れていくという雰囲気が非常に魅力的に感じたのを覚えています。
このころ、研究者としての道と教育者の道のどちらに進むべきかを決断しようとしていたのですが、もともと教師になろうと考えていたこともあり、新しいことにどんどん挑戦する学生を育てたいと思い、アントレプレナーシップ教育の道に進むことにしました。

日本の教育文化にあったアントレプレナーシップ教育を研究する
これからは学生向けのプログラムを通して実践を続けながら、日本の教育文化に合ったアントレプレナーシップ教育の方法を研究したいと考えています。日本では、アントレプレナーシップ教育に対する研究や実践が十分とは言えません。例えば、日本人の多くが「起業はリスクが高い」と感じ、挑戦を避ける傾向が強いことや、起業家を目指す人が少ない点が問題視されています。そこを解決する一つの手段が教育にあると考えています。
一方で、ヨーロッパでは、15項目の「アントレプレナーシップ能力(コンピテンシー)」が定義されており、それを基にした教育が進められています。また海外では生涯学習の視点から、生涯にわたって身につける力としてアントレプレナーシップをとらえていますが、日本ではその視点がまだ十分に浸透していません。
加えて、日本のアントレプレナーシップ教育では心理学的アプローチが不十分であることも課題です。アントレプレナーシップ教育の効果を測るには、学生の意識や行動変容を科学的に捉える必要があります。しかし、日本ではそれに関する研究がほとんどありませんので今後研究していきたい分野でもあります。
ただ海外のモデルを取り入れるだけではなく、日本独自の文化や価値観に合ったアントレ教育方法を構築する必要があると考えます。ですのでちゃんと学問として体系化して、 日本はどういった現状にあるのか、あるいは海外と比べてどうなのか、 みたいな議論をできるようにしていく必要があるんじゃないかなと考えています。

未来へ向けて・高校生へのメッセージ
高校生の皆さんには、ぜひ食わず嫌いにならず、未知の世界や新しい挑戦にどんどん飛び込んでほしいと思います。私自身、自分の研究に固執せず、新しい分野に飛び込んだことが、今のアントレプレナーシップ教育に繋がっています。「今やりたいこと」とか「今居心地がいいこと」だけやっていたら僕はここにいません。
「自分が今、興味がないからやらない」とか、「苦手だからやらない」と決めてしまうと、その先にある可能性が潰れてしまう。でも、実際にやってみることで、自分に合っているかどうかが初めてわかります。
何か新しいことを始めるのは、とても怖く感じるかもしれません。しかし、リスクを恐れた上で飛び込む勇気を持つことで、意外な面白さや、新しい可能性に気づくことができます。
写真提供=松下先生